藤堂高虎(とうどうたかとら)。
三大築城名人のひとりです。
この藤堂高虎の城が持つ特徴が、後の天守閣作りのスタンダードとなりました。
彼が生み出した建築方法が、巨大な天守閣が生み出すことになるのです。
それでは早速、高虎が生み出した城の特徴を
- 藤堂高虎の層塔型はシンプル!
- 望楼型の天守閣は見栄え重視
- 層塔型を生んだ技術
といった話題で見ていきたいと思います。
藤堂高虎の城!特徴は?
藤堂高虎の城の特徴は、層塔型(そうとうがた)天守閣です。
まず、お城の天守閣は、望楼型(ぼうろうがた)と呼ばれる形で誕生しました。
望楼型の天守閣の構造は、下層階の建物の上に物見やぐらを乗せたものです。
藤堂高虎の層塔型はシンプル!
下の写真が、望楼型の天守閣です。
この望楼型天守閣は、不安定な構造でした。
下の建物の屋根の上に物見やぐらを無理に乗せていたからです。
そのため、建物の内部も不安定になっていました。
そんな天守閣の構造をシンプルに変えたのが、藤堂高虎。
それが、下図の層塔型(そうとうがた)天守閣です。
望楼型の天守閣に比べ、層塔型はス~っとシンプルな形が特徴です。
建築物の下層階にも負荷が少なく、城造りが楽になりました。
この建築方式は効率的で、後の大名たちは高虎流の天守閣造りを真似る様になっていきました。
ちなみに、上の画像は高虎が築いた天守閣ではありません。
1626年に松倉重政が作った島原城(破却後に再建)です。
残念ながら、藤堂高虎が作った層塔型天守閣は現存していないのです。
藤堂高虎より前の望楼型
最初の天守閣は、望楼型でした。
この天守閣の前期形と言える望楼型は、織田信長が初めて作りました。
1579年の安土城です。
敵の侵入のため、遠くまで見るための櫓(やぐら)。
この櫓を意味する言葉が望楼です。
望楼型=櫓を取り付けたという事になります。
信長が作った天守閣は山の頂上にあり、建築技術の粋をあつめた、当時の超高層建築でした。
望楼型の天守閣は見栄え重視
望楼型の天守閣は、見栄え重視の部分がありました。
実用的には、物見やぐらの意味があった天守閣。
それに加え、天守閣には城主の権力を誇示する役割もあったためです。
そのため、建築物としては結構なムリをしていました。
未熟な石垣積み
天守閣が生まれたのは、戦国時代です。
その当時、石垣を積む技術は未熟でした。
天守閣を乗せる、石垣で作った平面は、形がいびつでした。
正方形にも、正方形にもなれないいびつな形だったのです。
いびつな土台の上に乗せる、天守閣の下層階も当然いびつな形になります。
そんな不安定な建物の上に、物見やぐらを乗せるのです。
天守閣は何とかバランスを取りながら、建っていました。
藤堂高虎が始めた層塔型
信長が天守閣を初めて世に送り出してから、約30年後。
1610年頃に藤堂高虎は、層塔型の天守閣を作り上げました。
箱型の層が重なる、スッキリとした天守閣です。
層塔型を生んだ技術
藤堂高虎は、高度な石垣み技術を持っていました。
その技術があったからこそ、層塔型の天守閣を作ることが出来ました。
石垣をきれいな正方形や長方形に積み上げられた高虎。
そのきれいな土台の上に、きれいな四角形の天守閣の層を重ねていくことが可能となったのです。
先程の島原城です。
平べったく、きれいな箱型の層が整然と積み上げられています。
天守閣は上に行くほど小さくなって、末広がりの形になっていますね。
最上階が物見やぐらであり、上層階を広くする必要が無かったからだと思われます。
層塔型で巨大な天守閣を作るのじゃ!
藤堂高虎の功績で可能になった、層塔型の天守閣。
シンプルで建築物として安定したため、巨大な天守閣を作れる様になりました。
今は無き名古屋城、大阪城、江戸城の天守閣はそれぞれ、
- 36.1m
- 44m
- 44.8m
という大変な大きさの層塔型天守閣でした。
現存の天守閣で最大のものは、1608年の姫路城。
じつはこの天守閣は望楼型で31.5mの高さです。
天守閣を豪華にせよ!
スッキリした箱型の層塔型天守閣。
天下を取った徳川家の天守閣には、「これでもか!」という程の装飾が加えられました。
徳川幕府は、天下に権力と財力を見せつける必要があったのです。
逆に、徳川家との関係が遠い大名ほど、質素な天守閣を作りました。
天守閣を派手にすることは、徳川家に逆らう意思がある事を意味したのです。